−アルジャーノンに花束を 続−

【日記22】

私は研究と称して鼠を自分の部屋に隠した。
彼は相変わらず迷路を解こうと躍起になっている。
進んで、進んで、まるでそのことだけが己の存在であるかのように、前へ、前へ。
もう、いいんだよ。
私は一人、椅子に座って惚けていた。昔はこうしてじっとしているのも出来なかった。
活発に動く私の脳は男君を思い出そうと思考を走らせる。
彼の笑った顔、怒った顔、困った顔、そして笑った顔。
全部全部、私の中に残ってる。
男君に会いたいな。会いたいな。
いつしか鼠の彼はその動きを止めていた。


【日記23】

私が鼠をかくまってから数日して、先生が部屋に入ってきた。
私の知能が上昇してからは先生を部屋に入れたこともなく、なぜだか緊張していた。
いや、言われることなど既に分かっていたのかもしれない。
私が研究は順調だとか必死にまくし立てていると、先生がいきなり土下座をした。
スマン、とただ一言言う先生に、私は何も言えなかった。

鼠の彼は餌を食べなくなっていた。それはどこか、自身の知能の低下をどこかで否定していた私の姿に似ていた。


【日記24】

先生は私の知能の低下が始まる前に、打開策を見つけようと仰った。
私はただ首を横に振るだけだった。
私は知らなければ良い幸せを知ってしまったのだ。
己の白痴も認識できずに、嘲笑を浴びながら過ごす日々に私は戻りたいと思ってしまった。
いつしか先生さえも超えてしまった私の頭脳は、ただ周囲を嘲りと僻みの目でしか見られなくなったのだ。
それでもなお、すがりつく先生。
やめてください。これ以上あなたを汚い目で見たくない。
明日、私はここを出て行くことを密かに決めた。


【日記25】

前回の宣言どおり、私は鼠と共に研究室を出て行った。もちろん、誰にも内緒でだ。
バスの窓から覗く朝日に目を細める。いつから太陽が眩しい事も忘れてしまったのだろう。
ケージの中で鼠がもそりと動く。彼の絶食は未だ続いていた。
ふと私は、ある場所に行こうと決めた。
彼にあの景色を見せてあげたくなった。
だから、もう少し頑張ってね。
見上げる視線に、彼の僅かに残る知性を感じた。


【日記26】

そこはどこにでもある公園だった。
滑り台にブランコ、シーソーやジャングルジム。一人では満足に遊ぶことも出来なかった遊具の先に目的の場所はある。
それはただ土を積み上げただけの小高い山。山なんて言うほどもないけど、それでも私はここに登る度に歓喜の声を上げていた。
隣には男君が手を繋いでくれている。近所の屋根よりも低い世界。それでも私の一番だった。
手の中の彼もきちんと見てくれているだろうか。それとも彼にはつまらなかっただろうか。
どれぐらいそこに立っていたのだろう。
ふと背後から呼び止められる。とても、とても聞き覚えのある声。
忘れるものか。
私はあの頃のように満面の笑みで振り返る。
男君、会いたかったよ。男君。


【日記27】

私と男君はしばらくお喋りに夢中だった。
一杯、沢山お喋りをした。内容なんてどうでもよかった。ただ一緒にいれるだけで嬉しかった。
そうして、私の中で一つの命も終わりを迎えようとしていた。

私と男君で、その山に一つのお墓を作ってあげた。
とってもちっちゃいお墓。でも、今度、すっごいおっきい花束を持っていこう。
いつの間にか私は泣いていた。泣くときは凄く苦しかったのに、今はとてもそれが暖かい。
この気持ちを君にあげたい。このまごころを、鼠の彼にあげたい。


【日記28】

私は急いで研究室に戻った。男君もついてきてくれた。
ほんの少しの家出だった為か、皆が散歩かい、とトンチンカンなことを言ってくれたのには助かった。
私は先生のいる部屋へと向かった。私の顔が凄い状態だったのか、酷く驚いていた。
私は先生に言った。

打開策を見つけましょう。先生、お手伝いしてよろしいですか?

先生は私を強く抱きしめた。なんか、お父さんみたいだった。


【日記29】

寝ない日々が続いた。
積み上がる数式。疾走する思考。知能の限界へ、そして更に次の領域へ。
それが私に出来る、鼠の彼へのせめてもの弔いと信じて。








【日記30】



結論/知能の低下は止められない。人は全能を想うことさえ罪なのだ。






【日記31】

いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ
馬鹿になりたくない馬鹿になりたくない馬鹿になりたくない馬鹿になりたくない
馬鹿になる=知の喪失=自己の死
自己の死
自己の死
自己の死
自己の死
(*以下、数十行に渡って繰り返される。この間、彼女はいたって穏やかに過ごしていた)


【日記32】

男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい
男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい
男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい
男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい
男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい男君に会いたい
(*以下、数十行に及ぶ。この間、彼女はこの研究結果を学会に発表した)

【日記33】

もうなにもかも終わりだ。
(*この日記を書いたと思われる直後、彼女は研究所の窓から飛び降りる。幸いにも命に別状はない)


【日記34】

幸か不幸か、奇跡的に軽傷で済んだ私はすぐに退院することが出来た。
それでも、入院している間、色々考えを巡らせた。
私は、私の知能はいずれ失われるだろう。それは紛れもない事実である。
狂いそうになる。ただ、私は同時にやらなければいけない事が山積みであると気づいた。
なにしろ私には時間がないのだ。


【日記35】

私はあの女の元へと向かった。
一人暮らしをしているというアパートに着くと、すぐに追い返すのかと思いきや、彼女は私を迎えてくれた。
もちろんあの冷たい目は変わらなかったが、時間のない現在、結論から先に切り出すことにした。
それはとても簡単なことだった。頭を下げる。突然の私の行動に目を白黒させる彼女を尻目に、私は続ける。
男君をお願いします。
一音一音を口にするたび身が裂かれるような想いだった。それでも構わなかった。

せめて男君が幸せになってくれれば。

ふいに頬に痛みが走った。今度は私が混乱する番だった。
涙を流す彼女は私に言った。

馬鹿じゃないの!? あの人が好きなのはずっとあなただったのよ!


【日記36】

男君は小さい頃から私の傍にいてくれた。
今思えば、半分以上育児を放棄した母親の下、私がこうして元気でいられるのはひとえに彼のおかげだ。
だからそれは素直に恋心に変わった。恋というのがどういうことかも理解できないくせに。

彼女は続ける。

私だって彼をずっと見てた! アンタが一から十まで面倒見られてるのをどんな気分で見ていたと思う!?
アンタがそんなになるから、もう世話をする必要がないからってやっと私のことを見てくれたのよ!
それなのになによ! また昔の自分に戻るから、彼を頼むって!? それじゃなにも変わらないのよ!
アンタなんて馬鹿でも天才でも迷惑なのよ!


【日記37】

彼女の家を出る。
迷惑。そうか、周囲の視線の意味がやっと分かった気がした。
私はいるだけで迷惑なのだ。
男君がいた。
私を抱きしめた。
そして彼は私に囁くのだ。

これからお前を守っていくから。

いいよ男君、もういいよ。


【日記38】

私はそのまま男君に抱かれた。
幸せだった。
耳元で愛してると囁く彼を中で感じながら、私は破瓜の痛みに耐えながら、尚悦んだ。
幸せだと感じてはいけないのに。なのに体は馬鹿正直に反応する。
涙が伝う。彼がそれを舌で掬う。
行為は私が意識を失うまで続けられた。


【日記39】

遂に私の知能が低下し始めた。
きっかけは些細なものだ。自分の論文が理解できなかった。
これから私の知能は加速度的に落ちていくだろう。
けれど、これからの科学の糧にしてくれることを望む。


【日記40】

私はある決心をした。
迷いに迷った。でもこれが正しいと信じることにする。
信じることが、人間に与えられた最大の能力である。

追記:外国語はほぼ全滅に近い。言語障害はまだ後々であると思われるが、油断はできないだろう。


【日記41】

今日、男君に別れを告げた。やはりあの女性の元へ戻るべきだ、と。
彼はこれ以上ないほどに激怒した。それでも私は構わなかった。むしろ、私の為に初めて怒ってくれた彼が嬉しかった。
終いには泣き出す彼を優しく抱きしめる。そういえばこんな事も初めてだったな。嬉しいな。



【日記42】

私には父親の記憶がない。死んだのか、どっかへ行ったのか、それさえも分からない。
私は先生にお願いした。しばらくの間、お父さんと呼ばせてくれ、と。
先生は笑顔で許可してくれた。そして強く抱きしめてくれた。
本当のお父さんもこんな匂いだったのかな。

追記:今日から剣査を再開する。結果は聞かないことにした。


【日記43】

今日、お父さんと動物園に行くことにした。初めての動物園で緊張した。
私がサイやキリンを見て目を丸くしていると、見覚えのある人を見かけた。
あの女性だった。どうやらお父さんが内緒で会うようにセッティングしてくれたようだ。
彼女は私に会うなり、深々と頭を下げた。そして私に抱きついた。泣いていた。
嬉しいことが増えた。私にお姉ちゃんが出来たのだ。


【日記44】

最近、物忘れがひどくなってきた。
でも私は幸せだ。だってお父さんがいるし、お姉ちゃんがいる。
あとは男君がいれば良いのにな。もっと幸せなのにな。
早く男君に会いたいな。


【日記45】

今日、男くんがやってきた。
男くんはお姉ちゃんに告白した。
お姉ちゃんは泣いた。私も泣いた。
よかった。よかった。
私は今、とっても幸せです。


【日記46】

今日、男くんがわたしのお兄ちゃんになった。
お母さんがいないけど、でもみんなといっしょは楽しいな。
またこんど、みんなでどうぶつえんに行こうね。



【日記47】

きょう、さいごのけんさをしました。
わたしはまえよりもばかになったようです。
でも●くん(黒く潰れて見えない)がなでなでしてくれました。
●くんはやさしいな。



【日記48】

きょう、おとう、さんと、おねえちゃん、どお、にいちゃでこうえんに、い、た。
ねずみさん、の、はかがありました。


【日記49】

きょ、でにきをおわ、りにします、
さい、ごにおねかいで、す。
ね、ずみさん、に、おきい、はな。たばを。
き、みにまご、ころを。あげて、くださ、い




【ネズミの彼に花束を、まごころを君に。 完】




作者: まとめ
2007年02月27日(火) 19時57分38秒公開

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